津田梅子の紙幣

津田梅子さんは2024年の新札で
5千円の顔に選ばれたことで有名ですね。

女性初と思っていたら樋口一葉さんがいらっしゃいました。

新札に選ばれるぐらいの活躍したことで
選ばれたのですが、簡単に何をした人なのか
紹介します。

津田梅子とは簡単に何をした人?岩倉使節団とのかかわり

津田梅子さんが新札の顔に選ばれたことで
一体何をした人だったの?って検索が増えています。

簡単に何をした人かといえば女性で初めて
政府公認の留学をしてその経験の元
今の津田塾大学を新設した人です。

簡単にいったらそうなのですが
さぞかし大変人生だったのでしょう。

津田梅子プロフィール

津田梅子

写真元:人物事典

  • 生年月日:1864年12月31日(江戸時代)
  • 没:1929年8月16日(享年64歳)
  • 出身地:現、東京新宿区南町

幕臣であった津田仙と妻の初子の間に生まれたのが
梅子でした。

その時代は江戸時代の幕末でした。

生まれたのが1864年でしたので、
大政奉還があったのが1868年だったので
明治になる4年前のことです。

時代背景からして政治的にも安定していない時に
生まれたことになります。

明治に入った時に父親が梅子の
人生を変える黒田清隆と知り合います。

黒田清隆は女子教育に興味を持っていたので
それをきっかけで岩倉具視の使節団とともに
留学することになったのです。

留学期間は10年を予定していました。

岩倉具視が結成した岩倉使節団として
一緒に行った最初の女子留学生として
わずか6歳の時に渡米することになりました。

帰国したときには津田梅子さんは
17歳になっていました。

帰国後は浦島太郎の逆バージョン状態だったのかも
しれませんね。

津田梅子と同じ時に留学した女性がいた!

女性初と津田梅子さんの留学が話題に
なってはいますが同じ時に留学した
女性がいました。

岩倉使節団の女性たち

写真元:ウィキペディア

女子留学生5名は、

  • 津田梅子(6)
  • 永井繁子(10)
  • 山川捨松(11)
  • 吉益亮子(14)
  • 上田貞子(16)

その時梅子さんが一番最年少だったのが
よかったせいかアメリカの生活に
馴染めたようです。

年上の二人はなじめずに途中で帰国したそうです。

岩倉使節団のメンバーは

岩倉使節団のメンバーがすごいです。

  • 木戸孝允(きどたかよし)
  • 大久保利通(おおくぼとしみち)
  • 伊藤博文(いとうひろぶみ)

もちろん他にたくさんおられますが
歴史上名をつなれる人ばかりです。

津田梅子の父親はなぜ留学させた?

津田梅子の父親仙

明治初期の時代にまだ女性の活躍なんて
考えてもない時代でしたが津田梅子の
父親はどうして留学させたのでしょう?

  • 先の時代を見据えて?
  • 子供が多いので機会があれば挑戦させる?

今となってはわかりませんが梅子の父親である
仙の行動力の半端なかったと言われています。

梅子が生まれた時にエピソード

一人目が女の子二人目が梅子さんだったのですが
梅子さんが生まれたときにショックのあまり
名前をつけなかったというエピソードが
残っています。

仕方がなく母親がで今の梅子のうめではなく

むめ

と名づけました。

後にむめ→梅子となりました。

 

津田梅子が帰国後の人生は

津田梅子さんの家族写真

写真元:津田塾大学

帰国したときには日本語を忘れていたので
通訳がいるほどだったようです。

また当時の日本は女性の活躍なんて考えられない
時代でもあったために女性が働くなんていう
環境がありませんでした。

日本語が出来ない状態だった為に伊藤博文の
通訳や伊藤博文の娘の家庭教師などに
携わり後に

伊藤博文の紹介で華族女学校の英語の教師に
着任しました。

後に再度アメリカ留学をしました。(1889年)

梅子自身がいい環境で勉強できたこともあり
自分のように女性でも勉強が出来るように

日本婦人米国奨学金 

をたちあげました。

1899年に日本で

  • 高等女学校令
  • 私立学校令
  • 女子大学創設運動

が公布されたのを
きっかけに同年に女子英学塾
東京に開校しました。

それが今の津田塾大学です。

そこで初代塾長となり華族も平民も
区別なく教育できるようにしました。

そのせいで当時教鞭をとっていた人たちは
報酬はほとんどなく今でいうボランティア
みたいになっていました。

本当だったらスポンサーなどからの
資金提供を受けるのですが教育方針を
妨げられないようにするために
ほぼ断っていたそうです。

津田梅子さん生涯独身

津田梅子さんは生涯独身だったようで
その要因は何だったのでしょう。

幼い時代からアメリカに10年間も
いたのでそこでの女性の扱いが
日本とは全然違うことを目の当たりにしました。

アメリカでお世話になったランマン夫妻を
見て育ったので男性と女性が同等な関係だった
ことで日本の男性ではものたりないと
感じていたのかもしれません。

津田梅子さん自身にも何度も縁談がありましたが
それをすべて断り、生涯未婚を誓ったとされています。

津田梅子さんが生きた時代は梅子さんと
考えが世の中が追い付いていない時代だったのでしょう。

まとめ

津田梅子とは簡単に何をした人だったのかは
少しわかっていただけたと思います。

梅子さんの父親である仙さんのことを
探っていくと世の中為に大きな仕事に
かかわっていたこともわかっています。

あの青山学院創設にもかかわっていたらしいです。

梅子さんが初めて行ったアメリカは岩倉使節団と
していきましたが、6歳なんて小学校1年生なので
右も左もわからない状態で約10年間過ごしていたら
ほんとうに帰ってきた時はカルチャーショックだったことでしょう。

自分と同じように女性が勉学できるように
学校まで創設するなんてほんとに頭が下がります。

津田梅子さんに世のために尽くした人は本当に
歴史に名を残していくのでしょうね。